ステラさんがピアノを弾く話
蒼炎と暁の間の時期
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ピアノは嫌いだった。
父は政略結婚の駒としての価値を高めるため、私がピアノを弾くことを望んでいた。
パーティーで出会う貴族たちは、私の演奏を褒めることで父に媚を売っていた。
着飾ってばかりで本音などない、そんな世界が嫌だった。
そしてまた、言いなりに振る舞うしかない私自身も……。
「マカロフ様はいらっしゃるかしら」そう呟きながら、私は酒場のドアを開ける。
カランコロンとなるベルの音が、来客があったことを伝えてくれた。
店に入ると、エプロンをつけた女性が「さあさ、座っていってよ。あそこの席はどうだい?」と声をかけてくる。
「あの、すみません、人を探していて……マカロフ様はいらっしゃっていますか?」そう告げると、女性は途端に渋い顔になる。
「あんた、あのボンクラの知り合いかい。一応言っておくけど、うちの中で金返せだなんだってモメるのはなしだよ」
「皆様にご迷惑をかけるような用事ではございません。それと、マカロフ様はボンクラではありませんわ!!」
マカロフ=ボンクラを否定する言葉に思った以上に熱が入ってしまった。
話を聞いていた女性は、「あーあんた、マカロフのアレかい。そういうことならいいか。マカロフなら確かにうちに来てるよ」と教えてくれた。
アレって何かしら?と思ったけれど、「端のピアノのそばで飲んでるよ」と酒場の奥を示されたので聞きそびれる。
女性の指の先に目をやると、確かに見慣れたピンク色の頭が見える。
ビールのカクテルを一杯注文してから、マカロフ様の方へ向かった。
マカロフ様に近づくと、体格の良い男性数人と会話をしていた。どうやら少々もめているらしい。
「おい、マカロフよぉ!おめえのせいでジョナスはスカンピン、酒場に来なくなっちまったじゃねえか」
「みんなあいつのピアノを楽しみにしてたっていうのによ。どうしてくれるんだ、こら」
言われたマカロフ様は飄々としたもので、「いやー、どうしたもんかねえ」と答えるだけだ。
「何がどうしたもんかねえだ!二度とここに来れないようにしてやってもいいんだぞ!」机を叩きながら一人の男性が立ち上がる。衝撃でビールが少し溢れる。
「あ、あの!」少々穏やかではない雰囲気に、堪えきれずに声をかける。
「ピアノなら私が少しばかり弾けます。どうかマカロフ様をお許しいただけないでしょうか」
その一言で私に気づいたマカロフ様は、「おーステラさん、ピアノ弾けたんだね」と言いながら軽く手を振ってくれる。
マカロフ様と話していた男性たちは、互いに顔を見合わせてから「お嬢ちゃん、度胸あるじゃねぇか。やれるもんならやってみなよ」と言った。
ピアノの前に座る。少し年季の入ったアップライトピアノだ。
きっと楽しそうな曲がいいだろうと、弾いたことのある曲の中で一番明るい曲調のものを選ぶ。
小さく息を吸うと曲を奏で始めた。初めの音ははっきりと、それから次第になめらかに音をつなげて……。
大丈夫、久しぶりだけどちゃんと弾ける、そう思っていると、
「おいおいおいおい!!お嬢ちゃんよぉ、なーにお上品にやってんだ!!」
男性の大きな声で遮られる。
驚いて演奏の手を止める。振り向きながら「す、すみません」と謝る。
もっと違う曲の方が良かったかしら、私の弾ける曲の中で他に良さそうな曲は……。そう悩んだが違ったらしい。
「ろくでなしが集まる酒場だぜ。もっと気楽に行こうや」そう言って男性たちは親指を立てた。
「ええと」呟いて少し考える。
改めて気軽にと言われてみれば、なんだか肩に力が入っていた気がする。だけどその力の抜き方がわからない。
困惑している私を見て、男性たちも困った顔をする。そのとき。
「ステラさん」とマカロフ様が私を呼ぶ声が聞こえた。
「気軽にって言ってるんだしさ、何にも考えずにとりあえずもう一回弾いてみたらいいんじゃない?」
何も考えずに、とりあえず、そう言われて私は何度か瞬きをする。
困りごとは何も解決していない。けれどマカロフ様にそう言われるとどうにかなりそうな気がしてくる。
前に向き直り鍵盤に手を置く。小さく息を吐いて、もう一度曲を奏で始める。
楽譜に書いてあった音楽記号のことは忘れて、ただ手が覚えているメロディをなぞる。
最初のワンフレーズを弾き終えたあたりで、控えめな手拍子が聞こえてきた。
人前でピアノを弾いたことはなんどもあったけれど、こんな風に手拍子をもらったことを初めてで、なんだか不思議な感覚になる。
その手拍子に応えるように鍵盤を叩く。控えめだった手拍子が少しずつ大きくなる。
なんだかみんなで一緒に演奏しているみたい。
もう2~3年は弾いていなかったピアノだ。実家にいた時より下手くそで、テンポは安定しないし、時々間違えた音を鳴らしてしまう。
それでも、昔弾いていたときよりもずっとーー。
曲が終わると、大きな拍手と指笛の音が聞こえた。
振り返ると、マカロフ様と男性たち以外にもいつの間にか観客が増えていたらしい。
賑やかなみんなの姿を見ながら、「音楽って、こんなに楽しいものだったんですね」と小さくつぶやいた。